三菱重工
名古屋航空宇宙システム製作所史料室見学
零戦の復元機などが展示してある三菱重工の名古屋航空宇宙システム製作所史料室に子供と行ってみた。
見学には予約が必要。朝一番の9時に予約した。場所は小牧の県営名古屋空港に接しているところ。自宅からは15kmほどあるが、自転車で行く。真夏なので暑くならないうちに空港まで行って、9時までダラダラと過ごした後に三菱重工に入る予定。
空港は朝の6:00でも入ることができる。
まずは展望台に上がって、空港を見渡す。飛行機がちらほら。名古屋空港はセントレアに、その役割を渡したので、古くて、人も少なくて、閑散とした印象。ほとんど自衛隊のための空港となっている気がした。
なごぴょん。これってペンギンか? ペンギンでもジェットエンジンつければ飛べるということか?
現在生産中の小型旅客機MRJ。今年2015年に三菱航空機は本社を名古屋市港区からこの空港に引っ越してきたばかり。 三菱航空機はMRJを開発・販売する目的で設立された三菱重工業の子会社。
機内は小型旅客機ということもあって、こじんまりとしている。
モーニングは「スカイカフェ翼」で。ここは6:15からオープンしている。
食券を買って注文。
ドリンクはドリンクバー。炭酸がシュワシュワしていてうまい。
ここにもなごぴょん。飛んでないね。
駐輪場に自転車をとめて、受付へ。
工場内は工事中で、たくさんの大型車が出入りしていた。
受付は混雑気味。見学の人は受付することもなく、史料室の方へ行ってくれという指示。
言われた方へ歩いていく。
史料室はこちらのようだ。
入るとすぐプレハブのようなトイレがある。
飛行機が見える
気になったのはこのパイプ。電線などが入っているのだろうけど、すっごく異様な感じ。
防衛庁機が展示されている。 初代戦闘機、 次の戦闘機はF1に発展した機体でもある。 現役を引退したようなヘリコプター。
近くで見るとなかなかの迫力。
プロペラの機構は複雑ね。
戦闘機もある。先端にある針って何だろう? と思っていたけど、本日判明した。
ジンベエザメのような戦闘機。
展示室は体育館ぐらいの大きさ。零戦がでんと展示されている。柱がない構造でこの巨大さ。やっぱり体育館だね。
展示室周りには家庭用のエアコンがずらりと設置されている。中央に見えるのは見た目がかわいい秋水。
天井が独特。防音を考慮した元工場という感じ。
うん、天井だけ眺めていても楽しいね。
体育館との違いは反響が少ないこと。
昔の工場
割と最近の工場。四角く描かれているのはMRJ用の工場のようだ。
展示されている零戦は復元機で、ミクロネシア連邦ヤップ島で1983年に発見された零戦を元に復元したそうだ。銘板から昭和19年三菱大江工場で作られた製造番号4708号機ということが判明。
戦時中、戦地から逃げるときには、飛べない機体は機密を守るためにパイロット自ら爆破したそうだ。 爆破された機体も、さらに攻撃を受けて、機関銃の穴などが残っている状態になっている。 下のパネル写真は発見されたときの状態で、エンジンが落ちているのが確認できる。ほとんど鉄くずという状態。
復元と言うのは入手した当時のパーツを元に、当時の姿を再現することで、 この機体が再び飛べるようになったわけではない。 オリジナル設計図は基本的にないようで、 当時の資料などから、なるべく忠実に再現するため大変な作業らしい。 この機体の復元の際、河口湖の自動車博物館の館長が所有していた零戦の残骸も利用し、2機の零戦を復元したという。 平成2年に三菱重工にて展示がスタートし、もう一機は靖国神社遊就館で展示されている。復元機としてはこの2機がもっとも新しいそうだ。
復元することで、当時の飛行機の技術がわかるという。 普通に考えると、自社で開発したのだから、社内に資料があると思うのだが、 ほとんどは戦後焼却されたようだ。そのため当時の技術を知る術は限られていたようだ。 特に実機がないため、その情報は断片的だったのだろう。
零戦開発までの経緯としては、昭和12年日本は国連を脱退し、中国での戦争が始まった。 日本は孤立し、日本政府としては、軍事力を高めるため、欧米諸国の飛行機よりも優れた飛行機を開発しろと指示。 軍の出してくる要望は欧米機以上の性能で、当初日本の企業はどこも作れなかった。
三菱では、堀越二郎と本圧季郎がドイツ、フランス、イギリス、アメリカで航空機の勉強をしていたため、その技術を生かして零戦をはじめとした航空機を開発することになった。
2013年の宮崎駿の「風立ちぬ」で堀越二郎が設計している姿が描かれているが、今回聞いた話もいくつか映画の中で紹介されていた。
当時の日本はエンジン馬力が1000馬力しか出せなかった。 欧米はすでに2000馬力あった。 これに対抗するためには、相手の飛行機の後ろに出来るだけ速くつくことが重要で、 1000馬力の能力でそれを実現するには、軽いことと、空気抵抗を少なくするしかないと判断し、 開発ポイントは、そこに集中したという。
零戦は地上から富士山の頂上まで3分程度で上がれる性能を持っている。 格闘戦能力として重要なのは上昇力と旋回半径。これも当時の戦闘機の中ではトップの性能を誇る。
面白いのは戦後、アメリカが日本から持っていった零戦を図面化し、それがロシアに渡っている。 そしてロシアで、その図面を元に零戦風を作って、それをアメリカ人が買うという構図が出来上がっているらしい。 中身は当然現代的になっている。 アメリカの航空ショーで、毎年その零戦が飛ぶらしい。昨年はクラックが見つかり修理中だとか。 これら零戦もどきのことに関しては三菱は一切関与しないみたい。勝手にやってね。というスタンスのようだ。
コックピットの後ろの棒から、垂直尾翼にかけて張られたワイヤーは何だろうと思っていたら、 モールス信号用のアンテナだそうだ。 ただ、当時の無線は性能が悪く、電気的なトラブルが多く、あまり実用的ではなかったそうだ。 当時は初歩的な電気知識が不足していたことが原因らしい。 ということで、実際には手で合図を送っていたらしい。 無線機は30kgもあったので、パイロットは不要に感じて、自ら無線機を取外してしまったという。
エンジンとプロペラは剛性が必要なので軽く作れない。 エンジン部だけで750kgある。 飛行機全体の重さは1800kgというバランスで、 エンジン以外は、軽くするように作られている。 後部胴体は空っぽ。
燃料は中心付近ある。重くすべきところは翼の付近で後ろは軽くする必要があるそうだ。 後ろは何もしないと上がるぐらいがちょうどよくて、後部には何も入っていない。 通常の飛行機でも客を乗せるときは翼の上辺り。とくに後部には乗せないようにしている。
エンジン内部も少し覗ける。 当時の日本の技術ではエンジンは1000馬力しか出せなかったようだ。 海外は2000馬力もあったので、 空中戦で勝つためには軽量化しかなかったそうだ。 零戦は超超ジュラルミンを使用して、軽量化を図っているが、 当時のものは経年劣化で剥離してしまうので、始めから短期間持てばよいという考えだったようだ。 飛行性能としては旋回能力が重要で、 プロペラの角度などもギアで最適化することで性能を上げたようだ。
胴体の下に燃料タンク(ドロップタンク)も独創的零戦がはじめて採用した。 300リットルで4時間飛べる。 その後捨てる。 航続距離は2200kmと長大。 現在では多くの戦闘機が同じ方式になっている。 太平洋戦争後半になると、ゼロ戦を作る材料が不足し、木で燃料タンクを作ったそうだ。
下パネルを見ると竹製もあったのね。
銃器は2種あって、羽のところから出ている20ミリと、プロペラの後ろの操縦席に直結している7.7ミリがある。 以前からプロペラの隙間から弾が出ると、プロペラに当たるんじゃないかと思っていたが、 プロペラと同期することで、当たらないようにしているとか。でもアメリカ機は適当に打つので、 プロペラに当たる弾もあるという。当たったら、妙な角度で飛んで行ったり、プロペラを傷つけるわけだが、 プロペラが壊れるほどのダメージはないようなので、そんなことは気にしないそうだ。 とんでもない方向へ飛んでいく弾に関しては、もともとも危ないものなので、OKというところか。 この手のものに安全という言葉は不釣合いかもしれない。
写真には写っていないが、翼から細いパイプが出ている。 これはスピードメーターで空気の入ってくる量のセンサー。 屋外に展示してあったジェット戦闘機の先端にある針も同じ。 このメーターは飛行機の本当のスピードが出てくるわけではないので、 このメーター頼りに、条件を加味して本当のスピードを割り出すようだ。 現代はGPSもあるので、当然ながら自動計算のようだ。
以前は操縦席の方まで入れたが、現在は老朽化のため階段をあがることはできない。
コックピットの空調が気になったので質問してみた。 風の通り方としては、 寒いときは着込んで、エンジンの熱をコックピットに回すことで調整するらしい。 その方法もいくつかあるようだ。 逆に暑いときは風貌を開けるという単純な解決方法。 空気抵抗を最小限にしたいときは閉める。そのときは、羽の横の空気穴からコックピットへ空気を送ることができる。
翼は実に軽く作られている
軽くするための工夫
骨格は普通鉄を使うが、零戦は超超ジェラルミンを使う。 当時の技術では数年しか持たないが、軽さを優先した。 外板は最低でも1.5mmというのが当時の常識だったが、零戦はその1/3の0.5mmにした。 障子のように骨を細かくし、外板は紙のように薄くした。 日本的発想と言えるかもしれない。
零戦は尾翼や翼のバランスが実は悪い。 本当は50cmぐらい主翼は長かったそうだ。しかし母艦に納まらないため、折畳み式になったそうだ。 でも折りたたむのが面倒ということで、最終的に短くなったという。 そのため性能は落ちている。 水平尾翼も機体が長すぎると、上下に不安定になるので前に移動。だから水平尾翼だけ 前にずれている。美しくない・・・ 他の飛行機でもこういう処理はないようだ。 零戦は、画期的なアイデアがふんだんに盛り込まれている一方、妥協の産物であることも伺える。 堀越さんとしても、この妥協は苦渋の選択だったかも。もしくは勝手にやられてしまったとか?
また後ろのタイヤはこんなオマケみたいなので大丈夫?と思ってしまう。 重量バランスが圧倒的に前にあるので、後ろはこの程度で十分ということだろう。
空気抵抗を減らすための工夫
零戦は足をたたむ構造にした。それまでの戦闘機は足をたたまなかった。 動力は600psiの小さい油圧ポンプで行ったため、 左右交互に時間をかけて折りたたんだ。 ただ、タイヤの開閉確認を電気仕掛けでやると、うまく動作しないこともあったらしい。 コックピットからではタイヤを確認できないため、信頼性のない電気式ではダメと判断し、 最終的には原始的な機械式になったようだ。タイヤが降りていれば、ギヤで連動して旗が上がるという仕組み。 パイロットから言わせれば、着陸と離陸が魔の時間だそうだ。
左主翼の先
「風立ちぬ」の映画にも出ていた沈頭鋲。 薄い外板を骨に確実に接着するために、沈頭鋲を1万個以上も使った。 普通はその1/3の3000~3500個ぐらいだそうだ。 出っ張りもほとんどなく、空気の流れを邪魔することもない。 ちなみに現在の沈頭鋲は触ってもわからないぐらいになっている。1/100mm以内。
プロペラ。この史料室のよいところは、触ったり持つことができること。プロペラも実際に持ってみると重さを実感できる。
銃弾を受けて出来た穴
当時の残骸
超超ジュラルミンは剥離している。
搭載されていた機関銃
20mmの銃弾薬包
7.7mmの銃弾薬包
堀越次二郎氏
「風立ちぬ」でも登場した本圧季郎氏。
「牛がいるね」
秋水は終戦間際に開発が行われて、結局使われることなく、破棄された戦闘機。 この開発が行われた経緯はB29対策。昭和18年にアメリカがB29を開発していることが分かり、秋水の開発がスタートした。
B29 は高度1万mからの爆撃をする。酸素が少ない(酸素分圧1/5)高度1万mでは空気を圧縮し、酸素を導き出すスーパーチャージャーというエンジンがそれを可能にしていた。
当時のプロペラ式のピストンエンジン機は酸素が必要なため高い高度で飛行することは出来ないため、B29に対抗する方法がなかった。
そのとき、ロケット技術が進んだドイツでロケット戦闘機を作ったと日本に情報が入り、 ただちに日本は設計図を買いにドイツへ行き、 その設計図を2隻の潜水艦にいっぱいにして、ドイツを出たが、日本には帰ってこれなかった。 日本政府としては、独自にロケット戦闘機を作るしかなかった。
開発期間は短く、たった11ヶ月だった。ドイツは3年かかったという。 終戦間際の昭和20年の7月7日に2機出来たという。 テスト飛行をするころに、原爆が落とされ、終戦となった。 結局テスト飛行で1回飛んだだけで終わったようだ。 秋水は日本の切り札として日本中で作っていたようで、 実はエンジン未搭載ながら相当の数の機体があったようだ。
終戦後、なぜかアメリカは秘密兵器である秋水をよく知っていて、 完成した1機を本国へ持って帰ってしまった。 現在もアメリカの航空博物館に展示されている。 この復元が実現したのは、アメリカに実機が残っていたからだという。
ドイツのテスト飛行のビデオがあるので、それを見せてもらう。
秋水のかたちは、グライダーから来ている。 高速で飛ぶので、丸くなっている。 時速は800-900km出たそうだ。
戦闘方法は B29爆撃機をひきつけてから、 滑走路から飛び立ち、タイヤを捨てて、すぐに垂直に上がっていく。
高度1万mを3分で上がってしまう。 ちなみにプロペラ機だと30分かかるらしい。 数分で爆撃機集団の中に入って、30mm砲で相手を打ち落とすという戦法。 30mm砲であれば、1発でも当たれば爆撃機は墜落するという。
ロケット戦闘機は燃料を満タンにしても10分しか飛べないため、こういう方法になっている。 戦闘時間は6分ぐらいだそうだ。 燃料が切れたら、自由落下をして、500km/hぐらいで逃げることができる。 その後はグライダーとして、飛行して地上に着陸する。 着陸の際にはタイヤがないので、ソリーを利用する仕組みになっている。 お尻の方から地面に着くようにし、左右の翼の下にあるふくらみを利用しつつ、 不時着のような格好で着陸するようだ。
ドイツのロケット戦闘機とかたちは似ているが、中身はかなり違うらしい。 終戦間際の日本に資源はなく、主に木を使って作られた。 強度的に3~4回の飛行で、翼の交換が必要で、ボルト3本で交換可能だそうだ。
ロケットエンジンは長さが4mぐらいで、 過酸化水素を利用した 水素分圧を80%ぐらいにして爆発させる。その爆力で前進する。
復元について 戦後すべての飛行機は廃棄されてしまって秋水もアメリカの1機を除いてないはずだが、 昭和27年 横浜の日本飛行機という会社の格納庫を掘ったら秋水が出てきた。
その後は隠されていたようだが、 平成になってから、アメリカ大使館を通じて報告したら、とくにおとがめなしだったようだ。 木製で、ほとんどは腐っていたのも、その理由のようだ。
昭和19年開発時には秋水ではなく、試作極致戦闘機と言われていた。 秋水になった理由は 昭和20年にどんどん出来てきたのだが、エンジン非搭載の機体だった。 パイロットは1日も早く実戦に向けて 他の飛行機に上げてもらって、訓練していたらしい。 そのパイロットたちが命名したのが秋水で、日本刀の名刀から取ったもの。 現在は、この機体の名前は秋水で統一されている。
操縦席
模型
秋水資料
これはドイツの図面
復元中の資料
1963年に初飛行して以来、まだ現役で使われている。 Mは三菱で、Uはユーティリティ。
MU-2はトータル800機生産し、そのうち600機はアメリカに輸出。 100機は国内、残りは各国に輸出。 51年後の現在でも220機が現役。 50年使われているビジネス機は少ないらしい。
プロペラ機ではるが、ターボプロップエンジンを採用していて、ガスタービンエンジンでプロペラを回すというもの。
通常のプロペラ機よりも高速に飛行できるという。 逆推力にもできるのため、ブレーキにもなり、小さい駐機場でも着陸できるメリットがある。
1960年代のアメリカはすでに、プロペラ機の時代ではないのだが人気だった。その理由としては客席から見える景色の違い。 ジェット機は翼が機体の下にあるので、地上を見ることができない。
その点、MU-2は下を見下ろすのには好都合な構造になっていた。 バンクすれば真下も見ることが出来る。 アメリカは飛行機でないといけない場所も多く、観察などを目的に学者などがよくチャーターするそうだ。
内装はいろいろ変えられるようで、 展示室の機体には小さな席が3つほど取り付けられていた。 患者輸送であれば、ベッドにしたり、 応接間にもなるとか。
コックピット
下模型はN50ETと書かれているが、MU-2とほとんど同じようだ。
初期の複葉機ソッピースの写真もある。 まだ木製でハフ張り(布張り)だが、エンジンはすでに300馬力あり、速度は200km/h以上出たそうだ。日本では海軍が偵察機で利用したそうだ。
その後銃を搭載した戦闘機となり、その後爆弾を積んで、爆撃機となっていった。
戦時中の飛行機は陸軍と海軍に別れていたようだ。陸軍用はドイツの技術をベースにし、海軍はイギリスの技術をベースにしていたようだ。 規格もすべて違い、三菱重工は海軍と陸軍両方に納めていたので、無駄なことも多かったようだ。
戦後の昭和20年には、日本の航空機開発はGHQにより、ストップされた。 それだけ航空機開発が優れていたとも受け止められる。 設計者は製造業から追放され、残っていた14000機あまりの機体や資料はすべて破棄されてしまったようだ。
でも7年後の朝鮮戦争から、東西の緊張が高まり、日本の独立、自衛隊の発足に伴って、再び飛行機開発がスタートする。ただし防衛関係の機体だけで、民間機は作れないという妙な制限付きとなった。 戦後の日本の航空機開発をしている主な企業は3社で、それぞれ役割分担がある。 三菱重工は戦闘機を開発し、 川崎重工は輸送機などの大型機、ヘリコプターを開発、 富士重工は連絡機などの小型機、練習機などを開発。
YS-11
純国産旅客機として有名なYS-11。 民間機の開発は、昭和34年に日本政府からアメリカに嘆願書を出し、 輸送機の研究がスタート。 輸送機設計プロジェクトチームという許可をもらったそうだ。 そこで開発されたのがYS-11(ワイエスいちいち)なのだが、 Yは輸送機で、Sは設計で、1は戦後初めての機体という意味で、最後の1はターボプロップエンジン方式を初めて採用したという意味らしい。
昭和37年に初飛行。 目的が売るためではなかったため182機しか生産されず、プロジェクトは終了した。
その後YS-11のノウハウを生かして、 上記のMU-2ビジネス機の開発を行っている。 次に開発した民間機はMU-2のジェット機バージョンであるMU-300ビジネスジェット。
MRJ その後はいきなり2015年現在で、MRJの開発のようだ。 MRJはYS-11クラスのジェット機という。
垂直尾翼の一部。この部分はカーボンで出来ていた。持ってみると、めっちゃ軽い。
史料室には売店もある。 古い書籍や文献もある。 またビデオ(DVD)などを見られるコーナーもある。「風立ちぬ」もあった。
X001と書かれた謎のシャトル。
戦闘機模型
製図道具
計算尺
昭和ぽい機器も展示
カシオミニ
当時のパーツがごろごろ
バルブ
図面
三菱重工の新聞広告
焼きたてパンが食べ放題。
映画も見ちゃったりする。
見たのは進撃ではなく「バケモノの子」
映画を見終えて帰ろうとしたら、いきなり豪雨。 そんな予報はなかったはずなのに・・・
飛行機は模型ではなく本物
やむまで本屋で時間つぶし。
ライオン
暗くなる前に雨がやんだのでよかった。自宅に着くころにはすっかり暗くなってしまったが。 雨上がりの庄内川。でっかい錦鯉が泳いでいる!
県営名古屋空港
日の出と共に出発したようなものなので、早朝には名古屋空港に到着。 写真は空港に隣接しているエアポートウォーク名古屋というショッピングモールの駐車場。 営業前なので走りたい放題。真夏の晴天でも朝は空気が冷たく気持ちいいわ。空港は朝の6:00でも入ることができる。
まずは展望台に上がって、空港を見渡す。飛行機がちらほら。名古屋空港はセントレアに、その役割を渡したので、古くて、人も少なくて、閑散とした印象。ほとんど自衛隊のための空港となっている気がした。
なごぴょん。これってペンギンか? ペンギンでもジェットエンジンつければ飛べるということか?
現在生産中の小型旅客機MRJ。今年2015年に三菱航空機は本社を名古屋市港区からこの空港に引っ越してきたばかり。 三菱航空機はMRJを開発・販売する目的で設立された三菱重工業の子会社。
機内は小型旅客機ということもあって、こじんまりとしている。
モーニングは「スカイカフェ翼」で。ここは6:15からオープンしている。
食券を買って注文。
ドリンクはドリンクバー。炭酸がシュワシュワしていてうまい。
ここにもなごぴょん。飛んでないね。
三菱重工へ
時間になったので空港から三菱重工へ。ここは正門。駐輪場に自転車をとめて、受付へ。
工場内は工事中で、たくさんの大型車が出入りしていた。
受付は混雑気味。見学の人は受付することもなく、史料室の方へ行ってくれという指示。
言われた方へ歩いていく。
史料室はこちらのようだ。
入るとすぐプレハブのようなトイレがある。
飛行機が見える
気になったのはこのパイプ。電線などが入っているのだろうけど、すっごく異様な感じ。
防衛庁機が展示されている。 初代戦闘機、 次の戦闘機はF1に発展した機体でもある。 現役を引退したようなヘリコプター。
近くで見るとなかなかの迫力。
プロペラの機構は複雑ね。
戦闘機もある。先端にある針って何だろう? と思っていたけど、本日判明した。
ジンベエザメのような戦闘機。
展示室
昭和27年から航空機の生産を再開したとある。終戦が昭和20年だから7年後には再開したことになる。 戦後GHQにより、国内の航空機はすべて爆破する必要があったし、技術者は飛行機設計ができないようにされ、 日本の飛行機技術の衰退を狙ったはずなのに、アメリカさんの事情で7年後の朝鮮戦争には作れ作れに変わったようだ。 でも旅客機の生産はダメで戦闘機はOKという妙な条件付。 戦争の経緯から考えると普通逆だと思うけど、商売の事情が優先しちゃったみたい。 お偉いさんのやることは、いつの時代も支離滅裂。展示室は体育館ぐらいの大きさ。零戦がでんと展示されている。柱がない構造でこの巨大さ。やっぱり体育館だね。
展示室周りには家庭用のエアコンがずらりと設置されている。中央に見えるのは見た目がかわいい秋水。
天井が独特。防音を考慮した元工場という感じ。
うん、天井だけ眺めていても楽しいね。
体育館との違いは反響が少ないこと。
昔の工場
割と最近の工場。四角く描かれているのはMRJ用の工場のようだ。
零戦
展示の主役である零戦。 室長の天野さんに解説してもらえた。 元航空自衛隊の戦闘機のテストパイロットで、 昔の戦闘機から現代の戦闘機まで実際に操縦しているので、 経験に裏打ちされた説明は説得力が違う。 驚いたのは、戦闘機の開発からかかわって、自分が納得した機体にしか乗らないそうだ。 命がかかっているので、そういう信頼関係が重要なのだろう。展示されている零戦は復元機で、ミクロネシア連邦ヤップ島で1983年に発見された零戦を元に復元したそうだ。銘板から昭和19年三菱大江工場で作られた製造番号4708号機ということが判明。
戦時中、戦地から逃げるときには、飛べない機体は機密を守るためにパイロット自ら爆破したそうだ。 爆破された機体も、さらに攻撃を受けて、機関銃の穴などが残っている状態になっている。 下のパネル写真は発見されたときの状態で、エンジンが落ちているのが確認できる。ほとんど鉄くずという状態。
復元と言うのは入手した当時のパーツを元に、当時の姿を再現することで、 この機体が再び飛べるようになったわけではない。 オリジナル設計図は基本的にないようで、 当時の資料などから、なるべく忠実に再現するため大変な作業らしい。 この機体の復元の際、河口湖の自動車博物館の館長が所有していた零戦の残骸も利用し、2機の零戦を復元したという。 平成2年に三菱重工にて展示がスタートし、もう一機は靖国神社遊就館で展示されている。復元機としてはこの2機がもっとも新しいそうだ。
復元することで、当時の飛行機の技術がわかるという。 普通に考えると、自社で開発したのだから、社内に資料があると思うのだが、 ほとんどは戦後焼却されたようだ。そのため当時の技術を知る術は限られていたようだ。 特に実機がないため、その情報は断片的だったのだろう。
零戦開発までの経緯としては、昭和12年日本は国連を脱退し、中国での戦争が始まった。 日本は孤立し、日本政府としては、軍事力を高めるため、欧米諸国の飛行機よりも優れた飛行機を開発しろと指示。 軍の出してくる要望は欧米機以上の性能で、当初日本の企業はどこも作れなかった。
三菱では、堀越二郎と本圧季郎がドイツ、フランス、イギリス、アメリカで航空機の勉強をしていたため、その技術を生かして零戦をはじめとした航空機を開発することになった。
2013年の宮崎駿の「風立ちぬ」で堀越二郎が設計している姿が描かれているが、今回聞いた話もいくつか映画の中で紹介されていた。
当時の日本はエンジン馬力が1000馬力しか出せなかった。 欧米はすでに2000馬力あった。 これに対抗するためには、相手の飛行機の後ろに出来るだけ速くつくことが重要で、 1000馬力の能力でそれを実現するには、軽いことと、空気抵抗を少なくするしかないと判断し、 開発ポイントは、そこに集中したという。
零戦は地上から富士山の頂上まで3分程度で上がれる性能を持っている。 格闘戦能力として重要なのは上昇力と旋回半径。これも当時の戦闘機の中ではトップの性能を誇る。
面白いのは戦後、アメリカが日本から持っていった零戦を図面化し、それがロシアに渡っている。 そしてロシアで、その図面を元に零戦風を作って、それをアメリカ人が買うという構図が出来上がっているらしい。 中身は当然現代的になっている。 アメリカの航空ショーで、毎年その零戦が飛ぶらしい。昨年はクラックが見つかり修理中だとか。 これら零戦もどきのことに関しては三菱は一切関与しないみたい。勝手にやってね。というスタンスのようだ。
コックピットの後ろの棒から、垂直尾翼にかけて張られたワイヤーは何だろうと思っていたら、 モールス信号用のアンテナだそうだ。 ただ、当時の無線は性能が悪く、電気的なトラブルが多く、あまり実用的ではなかったそうだ。 当時は初歩的な電気知識が不足していたことが原因らしい。 ということで、実際には手で合図を送っていたらしい。 無線機は30kgもあったので、パイロットは不要に感じて、自ら無線機を取外してしまったという。
エンジンとプロペラは剛性が必要なので軽く作れない。 エンジン部だけで750kgある。 飛行機全体の重さは1800kgというバランスで、 エンジン以外は、軽くするように作られている。 後部胴体は空っぽ。
燃料は中心付近ある。重くすべきところは翼の付近で後ろは軽くする必要があるそうだ。 後ろは何もしないと上がるぐらいがちょうどよくて、後部には何も入っていない。 通常の飛行機でも客を乗せるときは翼の上辺り。とくに後部には乗せないようにしている。
エンジン内部も少し覗ける。 当時の日本の技術ではエンジンは1000馬力しか出せなかったようだ。 海外は2000馬力もあったので、 空中戦で勝つためには軽量化しかなかったそうだ。 零戦は超超ジュラルミンを使用して、軽量化を図っているが、 当時のものは経年劣化で剥離してしまうので、始めから短期間持てばよいという考えだったようだ。 飛行性能としては旋回能力が重要で、 プロペラの角度などもギアで最適化することで性能を上げたようだ。
胴体の下に燃料タンク(ドロップタンク)も独創的零戦がはじめて採用した。 300リットルで4時間飛べる。 その後捨てる。 航続距離は2200kmと長大。 現在では多くの戦闘機が同じ方式になっている。 太平洋戦争後半になると、ゼロ戦を作る材料が不足し、木で燃料タンクを作ったそうだ。
下パネルを見ると竹製もあったのね。
銃器は2種あって、羽のところから出ている20ミリと、プロペラの後ろの操縦席に直結している7.7ミリがある。 以前からプロペラの隙間から弾が出ると、プロペラに当たるんじゃないかと思っていたが、 プロペラと同期することで、当たらないようにしているとか。でもアメリカ機は適当に打つので、 プロペラに当たる弾もあるという。当たったら、妙な角度で飛んで行ったり、プロペラを傷つけるわけだが、 プロペラが壊れるほどのダメージはないようなので、そんなことは気にしないそうだ。 とんでもない方向へ飛んでいく弾に関しては、もともとも危ないものなので、OKというところか。 この手のものに安全という言葉は不釣合いかもしれない。
写真には写っていないが、翼から細いパイプが出ている。 これはスピードメーターで空気の入ってくる量のセンサー。 屋外に展示してあったジェット戦闘機の先端にある針も同じ。 このメーターは飛行機の本当のスピードが出てくるわけではないので、 このメーター頼りに、条件を加味して本当のスピードを割り出すようだ。 現代はGPSもあるので、当然ながら自動計算のようだ。
以前は操縦席の方まで入れたが、現在は老朽化のため階段をあがることはできない。
コックピットの空調が気になったので質問してみた。 風の通り方としては、 寒いときは着込んで、エンジンの熱をコックピットに回すことで調整するらしい。 その方法もいくつかあるようだ。 逆に暑いときは風貌を開けるという単純な解決方法。 空気抵抗を最小限にしたいときは閉める。そのときは、羽の横の空気穴からコックピットへ空気を送ることができる。
翼は実に軽く作られている
軽くするための工夫
骨格は普通鉄を使うが、零戦は超超ジェラルミンを使う。 当時の技術では数年しか持たないが、軽さを優先した。 外板は最低でも1.5mmというのが当時の常識だったが、零戦はその1/3の0.5mmにした。 障子のように骨を細かくし、外板は紙のように薄くした。 日本的発想と言えるかもしれない。
零戦は尾翼や翼のバランスが実は悪い。 本当は50cmぐらい主翼は長かったそうだ。しかし母艦に納まらないため、折畳み式になったそうだ。 でも折りたたむのが面倒ということで、最終的に短くなったという。 そのため性能は落ちている。 水平尾翼も機体が長すぎると、上下に不安定になるので前に移動。だから水平尾翼だけ 前にずれている。美しくない・・・ 他の飛行機でもこういう処理はないようだ。 零戦は、画期的なアイデアがふんだんに盛り込まれている一方、妥協の産物であることも伺える。 堀越さんとしても、この妥協は苦渋の選択だったかも。もしくは勝手にやられてしまったとか?
また後ろのタイヤはこんなオマケみたいなので大丈夫?と思ってしまう。 重量バランスが圧倒的に前にあるので、後ろはこの程度で十分ということだろう。
空気抵抗を減らすための工夫
零戦は足をたたむ構造にした。それまでの戦闘機は足をたたまなかった。 動力は600psiの小さい油圧ポンプで行ったため、 左右交互に時間をかけて折りたたんだ。 ただ、タイヤの開閉確認を電気仕掛けでやると、うまく動作しないこともあったらしい。 コックピットからではタイヤを確認できないため、信頼性のない電気式ではダメと判断し、 最終的には原始的な機械式になったようだ。タイヤが降りていれば、ギヤで連動して旗が上がるという仕組み。 パイロットから言わせれば、着陸と離陸が魔の時間だそうだ。
左主翼の先
「風立ちぬ」の映画にも出ていた沈頭鋲。 薄い外板を骨に確実に接着するために、沈頭鋲を1万個以上も使った。 普通はその1/3の3000~3500個ぐらいだそうだ。 出っ張りもほとんどなく、空気の流れを邪魔することもない。 ちなみに現在の沈頭鋲は触ってもわからないぐらいになっている。1/100mm以内。
プロペラ。この史料室のよいところは、触ったり持つことができること。プロペラも実際に持ってみると重さを実感できる。
銃弾を受けて出来た穴
当時の残骸
超超ジュラルミンは剥離している。
搭載されていた機関銃
20mmの銃弾薬包
7.7mmの銃弾薬包
堀越次二郎氏
「風立ちぬ」でも登場した本圧季郎氏。
「牛がいるね」
秋水
ロケット戦闘機。今回初めて知った。独特な戦闘機。かたちは卵型で、かわいい姿をしている。 未来少年コナンのファルコを連想させる。秋水は終戦間際に開発が行われて、結局使われることなく、破棄された戦闘機。 この開発が行われた経緯はB29対策。昭和18年にアメリカがB29を開発していることが分かり、秋水の開発がスタートした。
B29 は高度1万mからの爆撃をする。酸素が少ない(酸素分圧1/5)高度1万mでは空気を圧縮し、酸素を導き出すスーパーチャージャーというエンジンがそれを可能にしていた。
当時のプロペラ式のピストンエンジン機は酸素が必要なため高い高度で飛行することは出来ないため、B29に対抗する方法がなかった。
そのとき、ロケット技術が進んだドイツでロケット戦闘機を作ったと日本に情報が入り、 ただちに日本は設計図を買いにドイツへ行き、 その設計図を2隻の潜水艦にいっぱいにして、ドイツを出たが、日本には帰ってこれなかった。 日本政府としては、独自にロケット戦闘機を作るしかなかった。
開発期間は短く、たった11ヶ月だった。ドイツは3年かかったという。 終戦間際の昭和20年の7月7日に2機出来たという。 テスト飛行をするころに、原爆が落とされ、終戦となった。 結局テスト飛行で1回飛んだだけで終わったようだ。 秋水は日本の切り札として日本中で作っていたようで、 実はエンジン未搭載ながら相当の数の機体があったようだ。
終戦後、なぜかアメリカは秘密兵器である秋水をよく知っていて、 完成した1機を本国へ持って帰ってしまった。 現在もアメリカの航空博物館に展示されている。 この復元が実現したのは、アメリカに実機が残っていたからだという。
ドイツのテスト飛行のビデオがあるので、それを見せてもらう。
秋水のかたちは、グライダーから来ている。 高速で飛ぶので、丸くなっている。 時速は800-900km出たそうだ。
戦闘方法は B29爆撃機をひきつけてから、 滑走路から飛び立ち、タイヤを捨てて、すぐに垂直に上がっていく。
高度1万mを3分で上がってしまう。 ちなみにプロペラ機だと30分かかるらしい。 数分で爆撃機集団の中に入って、30mm砲で相手を打ち落とすという戦法。 30mm砲であれば、1発でも当たれば爆撃機は墜落するという。
ロケット戦闘機は燃料を満タンにしても10分しか飛べないため、こういう方法になっている。 戦闘時間は6分ぐらいだそうだ。 燃料が切れたら、自由落下をして、500km/hぐらいで逃げることができる。 その後はグライダーとして、飛行して地上に着陸する。 着陸の際にはタイヤがないので、ソリーを利用する仕組みになっている。 お尻の方から地面に着くようにし、左右の翼の下にあるふくらみを利用しつつ、 不時着のような格好で着陸するようだ。
ドイツのロケット戦闘機とかたちは似ているが、中身はかなり違うらしい。 終戦間際の日本に資源はなく、主に木を使って作られた。 強度的に3~4回の飛行で、翼の交換が必要で、ボルト3本で交換可能だそうだ。
ロケットエンジンは長さが4mぐらいで、 過酸化水素を利用した 水素分圧を80%ぐらいにして爆発させる。その爆力で前進する。
復元について 戦後すべての飛行機は廃棄されてしまって秋水もアメリカの1機を除いてないはずだが、 昭和27年 横浜の日本飛行機という会社の格納庫を掘ったら秋水が出てきた。
その後は隠されていたようだが、 平成になってから、アメリカ大使館を通じて報告したら、とくにおとがめなしだったようだ。 木製で、ほとんどは腐っていたのも、その理由のようだ。
昭和19年開発時には秋水ではなく、試作極致戦闘機と言われていた。 秋水になった理由は 昭和20年にどんどん出来てきたのだが、エンジン非搭載の機体だった。 パイロットは1日も早く実戦に向けて 他の飛行機に上げてもらって、訓練していたらしい。 そのパイロットたちが命名したのが秋水で、日本刀の名刀から取ったもの。 現在は、この機体の名前は秋水で統一されている。
操縦席
模型
秋水資料
これはドイツの図面
復元中の資料
三菱重工 多目的小型ビジネス飛行機 MU-2
個人的に、この機体は気に入りました。まず見た目が犬っぽくて好き。出来損ないの新幹線みたいな顔も悪くない。1963年に初飛行して以来、まだ現役で使われている。 Mは三菱で、Uはユーティリティ。
MU-2はトータル800機生産し、そのうち600機はアメリカに輸出。 100機は国内、残りは各国に輸出。 51年後の現在でも220機が現役。 50年使われているビジネス機は少ないらしい。
プロペラ機ではるが、ターボプロップエンジンを採用していて、ガスタービンエンジンでプロペラを回すというもの。
通常のプロペラ機よりも高速に飛行できるという。 逆推力にもできるのため、ブレーキにもなり、小さい駐機場でも着陸できるメリットがある。
1960年代のアメリカはすでに、プロペラ機の時代ではないのだが人気だった。その理由としては客席から見える景色の違い。 ジェット機は翼が機体の下にあるので、地上を見ることができない。
その点、MU-2は下を見下ろすのには好都合な構造になっていた。 バンクすれば真下も見ることが出来る。 アメリカは飛行機でないといけない場所も多く、観察などを目的に学者などがよくチャーターするそうだ。
内装はいろいろ変えられるようで、 展示室の機体には小さな席が3つほど取り付けられていた。 患者輸送であれば、ベッドにしたり、 応接間にもなるとか。
コックピット
下模型はN50ETと書かれているが、MU-2とほとんど同じようだ。
その他
飛行機の歴史的な資料が雑然と展示されている。 戦前と戦後で展示は大きく区別されていた。 年表及び写真、三菱の製造した機体に関しては模型も充実している。 これを見ると、航空機産業は、ほとんど戦争の道具として発展してきているのがわかる。初期の複葉機ソッピースの写真もある。 まだ木製でハフ張り(布張り)だが、エンジンはすでに300馬力あり、速度は200km/h以上出たそうだ。日本では海軍が偵察機で利用したそうだ。
その後銃を搭載した戦闘機となり、その後爆弾を積んで、爆撃機となっていった。
戦時中の飛行機は陸軍と海軍に別れていたようだ。陸軍用はドイツの技術をベースにし、海軍はイギリスの技術をベースにしていたようだ。 規格もすべて違い、三菱重工は海軍と陸軍両方に納めていたので、無駄なことも多かったようだ。
戦後の昭和20年には、日本の航空機開発はGHQにより、ストップされた。 それだけ航空機開発が優れていたとも受け止められる。 設計者は製造業から追放され、残っていた14000機あまりの機体や資料はすべて破棄されてしまったようだ。
でも7年後の朝鮮戦争から、東西の緊張が高まり、日本の独立、自衛隊の発足に伴って、再び飛行機開発がスタートする。ただし防衛関係の機体だけで、民間機は作れないという妙な制限付きとなった。 戦後の日本の航空機開発をしている主な企業は3社で、それぞれ役割分担がある。 三菱重工は戦闘機を開発し、 川崎重工は輸送機などの大型機、ヘリコプターを開発、 富士重工は連絡機などの小型機、練習機などを開発。
YS-11
純国産旅客機として有名なYS-11。 民間機の開発は、昭和34年に日本政府からアメリカに嘆願書を出し、 輸送機の研究がスタート。 輸送機設計プロジェクトチームという許可をもらったそうだ。 そこで開発されたのがYS-11(ワイエスいちいち)なのだが、 Yは輸送機で、Sは設計で、1は戦後初めての機体という意味で、最後の1はターボプロップエンジン方式を初めて採用したという意味らしい。
昭和37年に初飛行。 目的が売るためではなかったため182機しか生産されず、プロジェクトは終了した。
その後YS-11のノウハウを生かして、 上記のMU-2ビジネス機の開発を行っている。 次に開発した民間機はMU-2のジェット機バージョンであるMU-300ビジネスジェット。
MRJ その後はいきなり2015年現在で、MRJの開発のようだ。 MRJはYS-11クラスのジェット機という。
垂直尾翼の一部。この部分はカーボンで出来ていた。持ってみると、めっちゃ軽い。
史料室には売店もある。 古い書籍や文献もある。 またビデオ(DVD)などを見られるコーナーもある。「風立ちぬ」もあった。
X001と書かれた謎のシャトル。
戦闘機模型
製図道具
計算尺
昭和ぽい機器も展示
カシオミニ
当時のパーツがごろごろ
バルブ
図面
三菱重工の新聞広告
展示室でえらくねばったので遅い昼飯
エアポートウォーク名古屋へ戻ってサンマルクで昼飯。焼きたてパンが食べ放題。
映画も見ちゃったりする。
見たのは進撃ではなく「バケモノの子」
映画を見終えて帰ろうとしたら、いきなり豪雨。 そんな予報はなかったはずなのに・・・
飛行機は模型ではなく本物
やむまで本屋で時間つぶし。
ライオン
暗くなる前に雨がやんだのでよかった。自宅に着くころにはすっかり暗くなってしまったが。 雨上がりの庄内川。でっかい錦鯉が泳いでいる!